34年ぶりの円安ドル高

リディア王国で貴金属が登場

紀元前7世紀ごろ、リディア王国(現在のトルコ)で最古の金属や貴金属の貨幣が作られました。

エレクトラムという金と銀を含む天然合金を型に入れハンマーで打ちつけて作るという手法でした。神様や王様、動物の姿を浮き彫りにした型を使用したことにより綺麗で美しい貨幣が出来上がり古代ローマに伝わっていきました。

金属貨幣が使用される前の古代ローマ帝国では「塩」が主な物品貨幣で、古代ローマ帝国の兵士の給料も塩でした。塩をラテン語で“サラリウム”という事から「サラリー」という言葉が生まれ、現代の“サラリーマン”の語源となったそうです。

その後、リディア王国から金属貨幣が来たことにより、古代文明の技術でも加工しやすい綺麗で希少価値がある金、銀、銅で金属貨幣が作られるようになりました。

参考:古代コインとは

日本の貨幣の歴史

日本の最古のお金は中国の「開元通宝(かいげんつうほう)」をモデルとして708年に造られた「和同開珎(わどうかいちん・わどうかいほう)」と言われています。

諸説では「富本銭(ふほんせん)」という銭貨が和同開珎よりも先に流通していたらしいですが、「厭勝銭(えんしょうせん。まじない用に使われる銭)」なので通貨とは違うとの見解や「無紋銀銭(むもんぎんせん)」は富本銭よりも先に流通した通貨だと唱える学説もあり、解明されていない点は否めず今後の研究により新たな真偽が判明するかもしれませんが、現時点の「皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)」では和同開珎が一番初めに登場します。皇朝十二銭とは708年から963年にかけて律令制下の日本で鋳造された12種類の銅銭の総称を指します。

和同開珎が誕生した後、10世紀位までは銅で出来た銅貨が発行され流通しました。所謂銅銭です。当時は日本の貨幣政策として新銅貨1枚が旧銅貨10枚と同等であったり、銅貨の軽小化や粗悪化(原材料の銅不足によって鉛を使用し補った)によって価値が急激に低下するなど、銅貨に対する信用が極端になくなり、10世紀後半からは銅貨は発行されず、元来あった物々交換の文化が根強く残り、米や布、絹が主流に物品貨幣として復活しました。

その後、12世紀になると日本は砂金を宋(中国)に輸出し代わりに宋の銅貨を輸入し「渡来銭(とらいせん)」というものが大量に日本国内で流通するようになりました。日本各地にある地域の名産品などの取引が盛んに行われるようになり、「有徳人」という裕福な商工業者が登場し、諸国の都市間を渡り銅貨を用いて取引を行ったため、広まりが加速していきました。

また、明(中国)と室町幕府との間に条約が結ばれ、貿易が始まった後は銅貨の需要はさらに高まり、「永楽通宝(えいらくつうほう)」は特に人気が出て全国的に使われました。

さらに、15世紀には商品流通の発展によって国内の銅貨需要は増大しましたが、国内外で私的に作られた銅貨「鐚銭(びたせん・びたぜに)」という粗悪な銅貨の流通によって、銅貨の信用が崩れ日本国内で混乱が生じ、幕府や大名が銅貨の円滑化を図るために撰銭令(えりぜにれい)という鐚銭を含む粗悪な銅貨の排除をする命令を繰り返し出しましたが、民衆に満足のいく結果は得られませんでした。

「びた一文」という語源はこの鐚銭(びたせん)の「びた」が由来しています。

そして、16世紀に入り戦国大名が鉱山開発を行うようになり金貨、銀貨が作られました。戦国時代で有名な金貨は武田信玄が作った甲州金です。金の純度が高く純金と言っても過言ではない代物です。

織田信長は金・銀・銅を比較し価格を定め、豊臣秀吉は天正大判などの金貨、銀貨を製造し、徳川家康は金山、銀山の支配を進め貨幣製造の技術と体制を整備し1601年に慶長小判を作り、日本で初めて貨幣制度が統一し、全国で使うことが出来る金貨、銀貨が誕生しました。

お金の歴史を紐解くと世界で初めて貨幣制度を統一し、金貨、銀貨が誕生したのは紀元前7世紀リディア王国です。日本の貨幣制度が統一された歴史と比較すると大きな開きがあると考えさせられます。

今回は、「お金の始まり」という事にスポットを当てました。

物品貨幣の貝から始まり、日本の金貨、銀貨が誕生するまでの話ですから、皆さんが知っていることばかりだと思いますが、何かのお役に立つことが出来れば幸いです。