小泉進次郎氏起用で米価格の安定狙う日本政府

5月の連休も明け春らしさというよりも夏を彷彿するような気候となり最近は春と秋がなんだか短いように感じ世界的な異常気象に不安を覚える方は多いのではないでしょうか。

また、米価格も高くなり農林水産省の所管大臣が不適切な発言をしたことにより辞任し、後任で白羽の矢が立ったのが小泉純一郎元総理大臣の御曹司で環境大臣や内閣府特命担当大臣等を歴任した小泉進次郎氏が農林水産大臣に就任したことは周知ご存じのことだと思います。

最近の米価格は高止まりし、何かと複雑な仕組みもあり安定した米価格に推移し一般消費者に支給できるようにするは随分と骨が折れそうな感じがしますが是非、小泉進次郎新農林水産省大臣には頑張っていただきたいと思います。

ここでお米について色々とお話したいと思ったのですが、今回は前回の話の続きをすると申し伝えておりましたので、お米のお話は次回以降にしたいと思います。いずれにせよ、米価格の安定や景気が良好となり皆さんが安心して暮らせる日が一日でも早く来る日を切に願っている次第でございます。

アメリカ南北戦争

1820年代以降アメリカ合衆国の北部と南部とでは軋轢が生じていました。

北部は工業化が進み自律的な経済成長をとげつつあり保護貿易を主張し国内市場の発展のために連邦主義をとりましたが、南部は綿花のプランテーションがイギリス経済に依存する傾向が強かったため自由貿易と州権主義が根強くありました。

また、黒人奴隷制度に対しても意見の相違があり建国時13州の北部では黒人奴隷制の反対が早期より上がっていましたが南部では奴隷制度を認めることを条件に連邦に加盟したこともあったため溝が深まっていきました。当時の民衆党では北部民主党は住民投票によって黒人奴隷制の可否を求めていたが南部民主党は黒人奴隷制を継続すること主張していたため内部分裂が起こり、1854年に北部の奴隷制反対論者が共和党を結成しました。

そして、1860年奴隷制拡大反対で共和党のエイブラハム・リンカーンが僅差で大統領に当選したことを皮切りに南部諸州はアメリカ合衆国を離脱してアメリカ連合国を作り、ジェファソン・デヴィスを大統領に選出しアメリカは南北に二分されてしまいました。その後、1861年に南北戦争が勃発したのです。

戦争開始時は南軍を支持するイギリスとフランスの支援もあった影響もあり南軍有利な戦況でありましたが、経済力に勝る北部が次第に戦況を盛り返し1863年1月1日にリンカーンが奴隷解放宣言をしたことにより国際的に「戦争の大義が北軍にある」と認められイギリスとフランスの干渉が失敗に終わり、アメリカ西部の農民が北軍を支持し1863年7月のゲティスバーグの戦いで北軍が大勝したことにより戦局が大きく北軍優勢となりました。

その後、1865年3月にアメリカ連合国の首都リッチモンドが陥落し、1865年4月9日に南軍の将軍が降伏したことにより南北戦争は終結しました。実に南北合わせて62万人もの死者を出す大戦争となり、アメリカ史上では第一次世界大戦11万人、第二次世界大戦の32万人の死者を大幅に超える惨事でありました。尚、南北戦争が終結した5日後にエイブラハム・リンカーン大統領は暗殺されてしまったことにより戦後の再建に混乱が生じてしまったのです。

二大政党の誕生

南北戦争は北軍の勝利で終結したことにより、アメリカ合衆国の統一が維持強化され、国家の経済基盤が北部の工業力となったことによりアメリカ版産業革命が更に進展することになり、戦争の争点だった黒人奴隷制度も廃止されアメリカ市民社会にとって大きな前進となりました。

南北戦争はある意味でアメリカ合衆国という大国の成立と工業化が進み多人種国家として繁栄するきっかけとなり、19世紀から20世紀にかけて世界的に存在感を生むこととなったのです。

南部の再建には共和党主導の下で行われ南部の黒人奴隷の解放を行い時には南部の白人の業務や土地を没収する強硬手段も取ったため南部の白人と衝突はしばしば起こりました。その中で、共和党は軍政が布かれた南部で選挙権を得た黒人の熱烈な支持を受け勢力を拡大し、南北戦争前は北部の地域政党だったが全国規模の政党となったのです。民主党も南北戦争後は大きな打撃を受けましたが北部で共和党の恩恵を受けていない都市や労働者層、移民に支持を訴えたことにより復活することに成功し、アメリカ合衆国では共和党と民主党の二大政党が誕生しました。

そして、アメリカは更に工業力に力を注ぎ第二次産業革命を迎え重工業化が進み、特に石油、鉄鋼、自動車など大きく発展し1880年代からはイギリスを抜いて世界一位となり、アメリカは帝国主義へと舵を切るようになったのです。

アメリカ帝国主義から第一次世界大戦参戦

1898年2月にアメリカ軍艦メーン号がキューバのハバナ沖に停泊していたが突如爆沈し250名もの乗組員が死亡するという事件が起き、アメリカ世論はスペインの謀略だという見方が強まり同年4月に米西戦争(アメリカ・スペイン戦争)が勃発しました。

当時アメリカの海軍力は世界第二位となっており、スペインの領土であったカリブ海にある島々やフィリピンをアメリカ領土とする事を目論見同年7月にはサンチアゴに上陸し同市を陥落させ8月にはフィリピンのマニラを制圧し次々とアメリカの手中に収めていき同年12月10日にパリで講和条約としてアメリカがスペインに2000万ドルを支払う事を条件にフィリピン全土、プエルトリコ、グアム島を領土としてキューバをスペインから独立させました。

この米西戦争の勝利を皮切りにアメリカは海外に領土を持つ帝国主義へと舵を切りつつもヨーロッパ諸国に関しては中立を保つようにしていました。

1914年7月28日に第一次世界大戦が勃発し、当時アメリカの大統領であったウィルソン大統領はヨーロッパ諸国の争いに介入しないというモンロー主義を唱え厳正な中立を表明しました。アメリカにはドイツやイタリアからの移民も多かったので、第一次世界大戦に参戦することによりアメリカ国内の世論が分裂する事を恐れていました。

しかし、1915年5月に大勢のアメリカ人が乗っているイギリス船ルシタニア号にドイツ潜水艦が攻撃を行い撃沈され多数の犠牲者が出たことをきっかけにアメリカ国内ではドイツに対する参戦論が高まり1917年4月6日にアメリカはドイツに宣戦布告しました。

アメリカ軍は当初32万人の兵力をヨーロッパに派兵しましたが次第に数が増え最終的には200万人に達するまで兵力を増員したことにより第一次世界大戦の勝敗を決定づける大きな影響を及ぼしました。

そして、第一次世界大戦を機にアメリカは債権国に転じる側面を持ち合わせ世界経済の富を独占する立場になったのです。

その後第一次世界大戦が終結し世界的にも女性の社会進出が進んできた中で、アメリカでは女性に参政権を与える等をして民主主義が一段と色濃くなり、1920年代ではアメリカの国民総生産は年5%以上の成長を続け、インフレもなく一人当たりの所得が30%以上も増えるようになりました。

アメリカは大量生産と大量消費で物質的な豊かさを保ち、また、大量生産することにより価格を抑えることに成功し一般大衆でも安価に物が買える時代になりました。ちょうどこの時期にラジオや新聞などのマスメディアの発展、音楽や劇場でジャズの流行、そして大衆娯楽として映画なども生まれ「ローリング・トゥエンティー」と言われる現代大衆文化が開花した時期でもありました。

世界大恐慌

1929年に世界大恐慌が突如起こりました。

当時アメリカの大統領はフーヴァー大統領で「永遠の繁栄」と称し国民に繁栄を約束しましたが10月24日にニューヨークのウォール街で突然株式の大暴落が始まり、これがきっかけで世界大恐慌が始まりました。

別名「暗黒の木曜日」と言われるこの出来事はアメリカだけではなく世界中に不況が広がり、1930年代に入っても景気は回復せず、企業の倒産、銀行の閉鎖、経済不況が一挙に襲い約1300万人もの失業者が出ました。

この恐慌は1936年迄続き第二次世界大戦が起こるきっかけにもなりました。

この不況の要因として

 ①第一次世界大戦後の好景気中による過剰投機によって生産過剰となった

 ②農産物の生産過剰により価格が下落し農業不況となり農家の収入が激減

  ③各国々の自国産業保護の観点から高関税政策が行われ市場拡大が淘汰された

  ④ソビエト連邦社会主義国家の誕生によりアメリカの市場が縮小された

  ⑤企業が生産を減少したので失業者が増えたため購買力も低下し負の連鎖となった

等のようなことが考えられます。

世界大恐慌の対策を各国で取るようになりイギリスでは1931年に金本位制を停止し1933年にアメリカも金本位制停止に同調し世界的に金本位制は崩壊する形になりました。アメリカは1933年にフランクリン・ローズヴェルト大統領がこの恐慌を打破するべくニューディール政策をたて農産物の過剰供給を押さえ、工業生産の国家管理を強め大幅な財政拠出で公共事業を起こし雇用を生み国内購買力の回復を図りました。

そして、世界では自国の生き残りのために経済を立て直すことに集中した結果、ブロック経済への転換に切り替えたために保護貿易主義となり世界全体の自由貿易が衰退し資本主義の危機に陥りました。

国内資源も乏しく植民地を持たないイタリアは経済破綻し、第一次世界大戦で敗北したドイツ共和国は莫大な賠償金をフランスに支払わなければならず、アメリカの資金援助で経済復興を図るという構図が大恐慌により崩れ600万人もの失業者をだす事態に陥り、1933年1月にアドルフ・ヒトラーが首相に任命されたことによりファシズムが台頭することとなった。

第二次世界大戦

ファシズム国家としてドイツ、イタリア、日本は軍事力により拡張を進め、アメリカは当初ヨーロッパの戦争に介入しないモンロー主義を取ってきたが、ドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発しフランスを降伏させたあたりで、イギリスが単独でドイツと戦うことが困難だったためアメリカに軍事支援を要請し、これを受け支援することとなった。

また、ドイツとソ連の戦争が開始するとアメリカはソ連に対しイギリス同様に武器を支援するようにし、戦車や飛行機等を提供したが直接戦争には参戦していませんでした。

しかし、1941年12月8日日本がアメリカのハワイ州にある真珠湾を攻撃した事を口実にドイツ、イタリア、日本へ宣戦布告しました。

日米間の戦争である太平洋戦争では1942年6月のミッドウェー海戦を機に形勢がアメリカ有利になり同年11月にはアフリカに上陸し地中海方面から反撃を開始してから1943年7月にイタリア半島に上陸後イタリアを降伏させました。そして、1945年5月ドイツは無条件降伏し、同年8月には日本の広島、長崎に原子爆弾が投下され日本は8月15日に無条件降伏を受けることとなりました。

この第二次世界大戦に参戦したアメリカは武器貸与法を成立させ民主主義の兵器廠となったためアメリカ軍事工業の拡張により雇用が増え、更に参戦したことにより国内産業の労働力は不足し完全雇用を達成するなど、アメリカは戦争景気によって世界大恐慌以来の失業問題を解決し、戦後の経済発展の基礎を築いたのです。

1950年代アメリカ経済の繁栄

第二次世界大戦で現在でも先進国でありながら、唯一直接本土が戦場とならず産業基盤を維持できたアメリカは戦後の世界経済の中で独り勝ちという状態でした。1950年代に入るとアメリカの繁栄を象徴する「テレビ、プレスリー、マクドナルド」と言われるものがあります。

テレビは本格的な商業放送が戦後まもなく始まり瞬く間に普及し、各家庭に1台のテレビを所有するのに10年とかかりませんでした。テレビ中継で熱狂されるベースボールやフットボール、バスケットボールなどアメリカを代表するスポーツは巨大産業となり、中流階級や移民家族を描いたホームドラマなども盛んに放映され、伝説的な歌手エルヴィス・プレスリーは黒人の「リズム・アンド・ブルース」とアメリカ南部の白人のカントリー音楽を融合させた「ロックンロール」という新しいスタイルで国を超え大勢の人から支持されました。

また、マクドナルドのチェーン店第一号店が1954年カルフォルニアに登場し、翌年にはロサンジェルス郊外にディズニーランドが開業しました。そして、この1950年代にクレジットカードも作られ、消費の際に支払いを容易にしてくれる利便性の高いこのカードは急速に世界に普及し、その後世界の国々でも使われ今もなお進化をしている優れものです。

この第二次世界大戦以降アメリカが世界の中心となり覇権国家として今も世界に影響を強く与える国となりました。

今回はアメリカ合衆国という国にスポットをあててみました。

皆さんが知っている話ばかりであり、尚、足早な文章となっている為、詳細さには欠けていますが皆さんとって何かのお役になれば幸いです。